映画「バード ここから羽ばたく」によせて。フィクションはリアリティの枠から、勇気を持ってはみ出さなければならない
Yellowという曲を聴いて真っ先に思い出すのは、20年以上も前に行ったColdplayのライブである。確か会場にはカラフルなバルーンが飛び交っていた。これほど演出が派手なライブは初めてだった。その記憶を上書きする、この映画でのYellowの合唱シーンである。分泌液が幻覚剤の原料になるヒキガエルで一儲けしようとする、バリー・コーガン扮するバグ。分泌を促すにはYellowを聞かせるといいと信じ込み、仲間たちと、ちゃんと家賃を払っているのかも怪しい団地の一室で大合唱する。
映画内でアンセム的な曲を大合唱する演出には、皆がこの曲を好きであるべきだと強いられているような居心地の悪さがつきまとう。しかしこの作品における合唱はそれと異なる。明日も見えないような生活を送る彼らは、絆を確かめ合うためでも、現実から目を背けるためでもなく、曲にすがるわけでもなく、ただ幻覚剤のために歌う。この徹底したズレが、この作品の質感を決定づけている。
この話は12歳のベイリーが過ごした4日間を描く。幻覚剤の原料となるヒキガエルを連れ帰った父親のバグは、つい最近知り合ったというケイリーと結婚するという。ベイリーを気遣うこともなく、ケイリーを部屋にあげ、さらに土曜日に結婚式を挙げると告げる。嫌気のさしたベイリーは家を出る。
ベイリーにはハンターという兄がいる。彼はこれから自警団の友人たちと何かを企んでいる。ハンターに追い返されながらも、彼らのあとをつけるベイリー。そこである事件を目撃し、駆けつけた警察から逃げるように走り続ける。たどり着いた先の草原で彼女は眠ってしまう。
目覚めると、そこにはバードと名乗る人物がいる。ベイリーとバードの会話は噛み合わない。はじめ彼女はバードを疎ましく思うが、母親を探しているという彼、大した手がかりもないまま、ふたりの交流が始まる。この出会いにおいても、互いがどこを見ているのかは決して一致しない。
フィクションは観客に共感を生むため、また作品に没頭させるために、作為的な説明やリアリティへの回収が頻繁に用いられる。しかし観客が本当に求めているのはそうした整合性ではなく、作者自身もまたそれを第一に望んでいるわけではない。
例えば、ベイリーとバードの出会いにおいて、ロクでもない大人に囲まれてきた彼女がなぜ容易に警戒心を解くのかという疑問は当然生じる。しかしこの作品はそこに理由づけを与えない。仕方なく帰宅し眠るベイリーの背後の窓、隣の団地の上に佇む、まるで鳥のようなバードのシルエット、そのショットひとつで、この問題を飛び越えてしまう。説明ではなく、イメージによって観客の理解を更新する。
またこの作品には、物語への貢献を放棄したかのようなショットが数多く存在する。ベイリーの眼差しを追うだけの窓辺の虫、空を舞う鳥、スマホの画面。芝居を撮ったとは思えない、自警団との挨拶や妹たちとの断片的な交流。これらは共感を誘うための装置ではない。確かにそこに存在した何かが、そのまま提示されている。もしそれらが単なるメタファーであり、リアリティの補強に過ぎないのであれば、もっと整理されているはずだ。そこには洗練を拒むべき質感が残されている。
そしてこの映画は、リアリティを軽々と飛び越え、いくつもの奇跡的な瞬間を呼び込む。ベイリーやバード、妹たちと犬、ロクでもない大人たち、すれ違う鳥や人、それぞれが断片でありながら確かな存在感を持つ。一つ一つの存在に目を向けながら、クライマックスに至るまで見届けるべき作品である。
またこの作品には貧困や家族の在り方への視線が含まれている以上、バグという存在を避けて通ることはできない。物語の通り、彼の行動はネグレクトに該当する。しかしこの映画は彼を単純な倫理の枠に回収しない。その背後には複雑な条件が折り重なっている。新自由主義的な環境の中で自己責任を問うことは、本当に機能するのか。もし隣人としてバグが存在したとき、正義を振りかざすこと自体が別の無責任に転じる可能性がある。そのような感覚が観る者に残る。
爆音のFontaines D.C.が流れる中、冒頭でケイリーと婚約し、ヒキガエルとベイリーを電動キックボードで運ぶバグは、歪でありながら確かに家族と共存している。クライマックスでは、傷心のハンターに対して、彼が語りかける場面がある。ハンターの存在が忌々しくもあり、同時に愛おしいのだと。この相反する感情の同居こそが、この作品の倫理である。
この社会にすべてを解決する正義は存在しない。フィクションであればそれが可能であるかのように見えるが、それは錯覚にすぎない。観る者それぞれが異なる背景を持つ以上、単一の正解は成立しない。本当に必要なのは、一方的な倫理や正義ではなく、被写体に対してどこまで誠実でいられるかという態度である。
バグは悪ではなく、バードはヒーローではない。ベイリーの環境が劇的に変化するわけでもない。それでもなお、この映画は確かに何かを残す。一人でも多くのキャラクターに目を向けてほしい。最後に、大丈夫だとわずかに思える、その感覚が静かに残る作品である。
