映画「見はらし世代」によせて。視線の先を見ているとは限らない
遠くまで広がる眺望を意味する「見晴らし」に対して、足元すら見えていない登場人物たち、ショットは彼らと対照的な抜け感のある空などを捉えるでもなく、メインの舞台となる渋谷の空はそもそも狭い、そうした要素に対する皮肉が込められているとも判断できず、ただ適当につけられたとしか見えないこのタイトル。ラストシーンはLUUPで走る若者の列、目の前にはあまりに情報量の多い渋谷の街並みが広がる、むしろそれぞれの視線の先はひらけている、唐突に映し出されるタイトルとわずかに接続されるその瞬間はあまりに素晴らしい。
少し話に触れておく。中心となるのは、高野家という一家。父の初、母の由美子、姉の恵美、この物語の主人公である蓮。まずこの映画は10年半前、束の間の家族旅行から始まる。ランドスケープデザイナーである初は宿となる貸別荘に着いた途端、電話を受ける。それはおそらく初が当時、何より望んでいたコンペの通過を知らせるものだった。その感情を遠慮なく表に出すことはなく、由美子に結果を伝える。ふたりの会話は平行線を保ったまま、初の仕事を優先し、この旅行は切り上げることに決まる。英単語の本をパラパラとめくる恵美と、サッカーボールを追う蓮。どこでもできることをこなすふたり。由美子に多少の気遣いを見せつつも、父に連れられ海に向かう。そして舞台は現代に移る。成長した蓮は胡蝶蘭の配達を生業としている。帰宅した蓮のもとを訪ねてきた恵美は、自身の結婚を告げる。ふたりの会話から、過去のあの日を境に高野家は機能不全が決定づいた。同時に恵美は蓮に父の帰国を知らせる。自ら告げたにも関わらず、恵美は高野家に対して何も期待していない。国際的に活躍するデザイナーとなった初。回顧展のために帰ってきた。決して邂逅とは言えない流れで、蓮と初は再会する。この再会においても、互いがどこを見ているのかは決して交わらない。
先に断っておけば、この映画は家族の絆の美しさをうたったものではないし、再生でもなく、高野家が抱えた問題が解決するわけでもない。決してある種の映画をチープだと言いたいわけでもなく、私が好きな作品も別にいくつも存在する。確かに高野家の再会は映画に許されたある種のマジックにかけられ、観る者の感情をくすぐるシーンではある、だがそこにドラマの山場が用意されているわけでもない。
物語の途中、渋谷を生きる路上生活者たちが何度か映し出される。美化された街の開発プロジェクトのもと、誰かの生活が奪われていく。一見、大きく街をデザインした初の功罪として立ち現れる。半分そうで半分違う。それは初個人の問題であると同時に、その空間を享受する私たち全員の問題でもある。スクリーンに大写しとなったMIYASHITA PARKを行き交うすべての人の功罪でもある。これは極めて象徴的である。誰も大きな流れに逆らわず、たまに逆らう者が現れたとしても、大きく静かな波にさらわれていく。そしてそれは、高野家の関係性と同じ構造をしている。誰も決定的には踏み込まず、視線だけがすれ違い続ける。都市に生きる人々もまた、それぞれ異なるものを見ており、その視線が交差することはない。
この物語もたまに一石を投じようとする人物は現れる。最も大きな石は蓮が家族の再会を図った行動である。おかげである夜に高野家は4人集まることに成功する。しかし家族だからといって、それぞれの気持ちが分かるわけでもなく、初と観る者を少し傷つけて、夜は明ける。蓮自身、再会を望んだとか、ケジメをつけたかったとか、そんな安い表現で片の付く感情ではなかった。観ている我々も、この家族は幸せだとか、不幸だとか、そんな判断をする必要はない。大して何かが大きく変わるわけでもなく、蓮はいずれ新しい仕事を見つけ、恵美は悩んだ時に薄っぺらい助言をくれるパートナーと結婚し、初はまたどこかの国に渡る。軽快なポップチューンのように映画は終わる。
ここまで書いた内容を振り返ると、ドラマとしての欠陥を主張しているように勘違いされかねないが、決してそんなことはない。この映画は始まってわずか2シーンで傑作であることを決定づけている。2シーン目ではサービスエリアから宿泊先に向かうため、家族4人が車に乗り込もうとするシーンだが、旅行気分の初と恵美と蓮、3人と一緒に道路を渡れない由美子が映される。3人と由美子の間に大した距離はない、それでもこの溝は途方もなく感じられる。なぜこのように感じるのか考えると、おそらくこのシーンを含め由美子はどこを見ているのかという印象を、ショットと演技と演出の積み重ねによって成立させているからである。人によればこの物語は他人事として片づいてしまいそうだが、演技と演出がそれを拒む。キャラクターたちにとっては、自身を取り巻く脇役や社会すべてが、切実に鬱陶しい。
映画というのは、カット割りと音声を手にした時点でドラマを描くことに大きくシフトしたが、多くの映画制作者は結局、映らないものをいかに表現するかという問題に試行錯誤していると、むしろ信じている。その映らないものとは感情なのか、あるいはホラーにおける幽霊なのか、それは作家ごとに異なる。
そういった意味で、この映画は各ショットにおいて登場人物が見ている先を表現することに最も優れた作品のひとつである。それは文字で表現できるドラマを遥かに凌駕する。カメラはピントや調光があるとはいえ基本的にレンズの前のものをすべて写す。それに対して人の目は、目の前から時として必要なものや見たいものだけを抽出する。何を語らずとも、何を見ているのかを想像し、知ることで、途方もないドラマが展開される。この映画は、その選択された「視線」そのものを映し出す。さらにこの作品はセリフも語尾に至るまで思考が尽くされており、微妙な登場人物の変化が表現されていることも付記しておきたい。今年の暮れに近づく時期に、ほとんど欠点を見出せないこの作品に出会えたことは特筆すべきだ。
最も象徴的なのは、家族3人と由美子が再会し、由美子に何が見えているかにあるが、これは是非観て確かめていただきたい。私のハイライトは恵美が結婚相手に対して、いわゆるマリッジブルーであることを打ち明けるシーンである。ここで相手はノイズのような言い草で恵美を勇気づける。機能不全に陥った家族出身の恵美がなぜ結婚を選択したのかという小さな疑問は、このシーンで解消される。古い慣習である結婚制度に人が帳尻を合わせている以上、言葉で説明できるほど単純ではないと、むしろ恥ずかしさすら覚える。大袈裟にはせずとも交わらない恵美と結婚相手の視点、あの時の由美子を彷彿とさせる恵美の姿勢、結婚相手の微妙に古い男性像が透けてとれるセリフの語尾、その一つ一つへの配慮の結果である。
最後に、この映画はコミカルな軽さも持ち合わせている。私が最も笑ってしまったのは、初が自身の経営するデザイン事務所の社員から、社員に多い髪型をめぐってある指摘を受ける一幕である。この瞬間には、どこか痛快さすら覚える。
