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ハッカキダン

ハッカキダン
FICTION
Written by匿名希望
更新日 2026年10月26日

「ほら見てごらん。耳の中にこんな長い綿を詰めているんだ。もう六十年、医者も諦めた。でもこうして、なんとか生きてる。郵便車やタクシーに乗って、立派な家も建てた。体が健康なんだから大丈夫。反省したら、すぐに出られるよ」

 私は壁に入った一筋のヒビに耳を当てている。ヒビというにはあまりに一直線で失礼な気はした。妙な音が壁の向こうから鳴った。無機質なものではなく、かといって、人の言葉と言える確信もない。それは動物の声な気がした。それに問いかけようとした。反復するそれはこちらに何かを訴えるでもなく、ただ声をあげたように聞こえた。だから私も咄嗟に浮かんだ言葉を口にしようとした、だが。

 昨日は久しぶりに母と祖父が面会に来た。こんな所に私を閉じ込めた張本人たち。一年は経つだろうか。
 一年前、廊下の床が抜ける程に私は暴れた。あまり覚えていない。特別なことでもないからだ。私が父に玄関の掃除か何かを頼んだことがきっかけだったように思う。父は実際は掃除などしてくれていなかった、そんなところだろう。そんな些細な嘘に怒り狂う娘、両親の目にはどう映ったのだろう。しかしそれは私にとって些細ではない。その嘘で父への信頼は崩壊してしまう。遡って、全てが嘘だった可能性が高まったのだ。この通り、私は理屈を持って怒ったのであって、煙たがられる覚えも、蔑まれる覚えもない。祖父母が遊びに来ている最中ではあったが、そんなことなどもはや関係ない。父の愚かな行為が取り返しのつかないこと、であることを教え込まないといけない。
 ひとしきり暴れた。どうだ、恐れ入ったか、と冷静になり、周りを見渡したところで、父と弟に羽交い締めにされ、部屋に放り投げられた。ここまでは私にとって、よくある話、数年繰り返している出来事だ。
 それでも、あまりの情けなさに一晩眠れなかった。夜が明けると母と祖父が部屋に入ってきた。とても穏やかな顔をしていた。新しい服を買いに行こうと誘われて車に乗せられた。今でも後悔している。酔い止めを必ず飲む私は乗車後、すぐに眠ってしまう。
 気づいた時にはここにいた。あの日、見上げた天井は今見ている天井より高く見えた。革のベルトで手足はベッドに繋がれていた。暴れることさえ許されず、ただただ叫んだ。しかし、その声に誰も耳を貸してくれることはなかった。声は天井にも届かず、ただただ虚しさを私に返すばかりだった。
 諦めを強制された私は翌日に身体拘束を解かれ、そのまた翌日に保護室からは出された。
 そこからは寝て起きて、不味い三食と服薬、テレビを眺めて、毎日が終わる。
 だから面会は少し浮き足立つイベントではある。しかし祖父は本当にデリカシーのない人間だ。余計なことばかり言う。

「一体、何がしたいんだ」
 そんな怒鳴り声が頭をこだまする。その割にはその声の主を覚えていない。
 私がここに来る少し前に実家は引っ越しをした。同じ最寄駅圏内で、分譲マンションから一戸建てに引っ越した。側から見れば無意味に映るだろう。最低限の生活機能しか持たない、早い電車も停まらない、そんな郊外だ。でも世間体を気にする両親にとって、分譲マンションからの離脱はささやかながらも意味を持つのだそう。そんな新居を華奢な私は可能な限り破壊した。何度も父親や弟に取り押さえられ、生傷絶えない日々だった。
 それが祖父曰く、また私の実家は引っ越しをするそうだ。一からの注文住宅で、母は新居への指示出しで大忙し。そんな中、来てくれたそうだ。それはめでたい、ありがたい。
 また祖父曰く、マリアちゃんは赤ちゃん帰りしているんだよ、だから私はここにいるんだそうだ。私からしたら赤ん坊程度の知能は祖父の方だ。
 母には何を話しかけたらいいのか、もう分からない。というよりも、何を聞いても無駄だと分かっている。私は赤ん坊じゃないから、冷静な時、そのぐらいの理解力はある。私が暴れて、乱れに乱れた家から引越しができて、本当によかったね、それだけ母に目で告げた。母は目を逸らし、帰っていった。私の酩酊したような目が怖いそうだ。

 今、天井を見上げるとあの日ほど高くない。もしかしたら天井が下がってきているのかもしれない。そう考えると急に壁のヒビが恐ろしくなった。言いかけた口をつぐんだ。
 この保護室に閉じ込められるのはあの日以来だ。今日はちょっと反省しなさいということで、ベッドに繋がれることはなかった。保護室とは、私を保護するのではなく、私が私以外に危害を加えないための保護である。少なくとも私にはそうとしか思えない。
 こうなるに至った原因はいくつかある。
 まず今日の当番の看護師、これは言動行動の何もかもが許せない。特に許せないのが、歩きながらする咳払いだ。不愉快で仕方ない。今日は特に多かった。回数が限界を突破する直前だった。
 そこで運ばれてきた夕食。今日は数少ない楽しみである白身魚の甘酢餡かけだった。それに小さな羽虫が入っていた。看護師に訴えると、彼女は私のスプーンで、それを掬い、私のトレーに避けた。何の問題もないでしょと言わんばかりに去っていった。もちろん私はそれを口にすることはできない。それどころか、スプーンが使えない。
 そんな私の隣に同じ入院患者のヤオリが座った。そんなつもりはないが、周りから見て、私とヤオリは仲が良いらしい。ヤオリはいつも私の後をついてくる。ヤオリは私より十歳程も年上だ。ヤオリは自分の夕食を私に差し出そうとしている。私は気づかないフリをした。
 貯めていた睡眠導入剤を使って、今日は早々に眠ろうと心に決めた。そうでもしないと、あの看護師の首を絞めてしまうかもしれない。今日見る夢は、退院してあの看護師の家族もろとも、そんなことを願った。
 そういえば、ここではただ一つの楽しみがある。タバコだ。ここに来た当時、私は未成年だったからタバコを吸うことすら許されなかった。それが今は吸える。空腹に喫煙というのはかなり不満だが、スタッフステーション前にある鎖に繋がれたライターで火をつけ、一つ大きく息を吸う。さてさて続きをと、喫煙室に移動する。
 程なくして、ヤオリが入ってきた。
 ヤオリは私を見て、タバコを吸い始めた。でも私は彼女のタバコを吸う様が嫌で仕方ない。タバコを口に持っていくまで、煙を吐くまで、全ての動作があまりに遅い。カクカクと動く右手が到着し、またカクカクと口元から離れ、焼香のようにのんびりした煙がたちのぼる。私であれば、その間に五回は吸える。そんなヤオリを視界に入れたくない。ただこの狭い喫煙室でそれは叶わない。なるべく彼女とタイミングが合わないようにしている。それでもヤオリはタイミングを合わせようとする。私を見ていないふりをして、いつもこちらを見ている。タバコに限らず、歯磨きも、食事を終えるタイミングも、ベッドで目を閉じるまで、ずっとだ。さっきだって、自分自身、白身魚の甘酢餡かけが苦手で、ついでに私の気でも引きたいのだろう。もちろん無視だ。
 今も目の前でヤオリはタバコを吸い始める。出ようにも貴重な一本を消したくないし、入口はヤオリに塞がれている。躊躇していると、さらに気づいてしまった、彼女はたまにタバコをふかす。ああ、今がそうだった。最悪のタイミングだ。
 根負けした私はキレた。手足が動く限り、ヤオリを殴る蹴るした。ヤオリはまったく抵抗しない。
 だからあの日と違い、今日ここにいることは納得している。

 壁の向こうが騒がしい。看護師にヤオリが怒鳴り散らしている。私の不在に泣きじゃくっている。そんなところだろう。ヤオリは私がいないと眠れないそうだ。申し訳ないが、私は一人でも眠れるんだよ。そろそろ黙らないと、お前も同じ目に遭うぞ。入り口のドアをそっと引いた。南京錠が軽く音を立てた。私は無力だ。
 しかしだ、壁が開いた。かなり大きく。人が並んで通れる程度に。

 開いた壁を通るのは容易だった。ドアを通り抜けるのと、何ら変わりない。強いて言えば、瞬間、暗い闇が視界に広がったぐらい。
 通り抜けた先も大したことはなかった。いつもの食堂だ。のんべんだらりと、数人がテレビを眺めている。山奥のここでは寒くなるまで、夜に虫の声がうるさい。テレビの音量をゆうに超えている。チャンネルも誰かが選んでいるのを見たことがない。今はゴールデンタイム前のニュース番組を見ているようだ。この要約された情報が排除された私たちに何の関係があるのだろう、面白くなってくる。ダメだ、笑いが止まらない。

「おはよう」
 その声が聞こえた途端に、私は笑うのをやめた。それは聞き慣れたような、聞き慣れないような、むしろ聞きたくない声だった。振り返ると、そこには私がいた。私はガラスの向こう、スタッフステーションで看護師と世間話をしていた。私も看護師の格好をしていた。
 咄嗟に隠れないといけないのか、そんなことを考えた。私が私に会ってはいけないというのはよく聞く話だ。しかし私は私に気づく様子はなかった。望んだこともない看護師の私は同僚と穏やかに会話していた。

 スタッフステーション前に誰かがやってきた。彼女も私を気にしていないようだ。彼女はタバコに火をつけた。私が普段吸っているものとは違う、むしろ嫌いな匂いだ。この無神経にも肺を冷たくメッキ加工するような匂いが嫌いなのだ。私の不快感など知らず、彼女は喫煙室へ向かう。私は目を丸くした。ヤオリなのだ。ヤオリと私の目は合わない。しかしタバコに火をつけた瞬間、看護師の私はヤオリに微笑んだ。微笑む私は自分なのに見慣れなくて、不思議だ。
 喫煙室でヤオリは悠久の時を過ごしていた。深く呼吸していた、一人で。この光景を私は信じることができずにいた。
 ヤオリが喫煙室を出た頃、食堂には夕食が運ばれてきた。思えばあべこべなことばかりだ。夕食の時間はとうに終わっているはずだし、ヤオリは騒いでいたはずだ。
 ただ何より納得できないのは、今、ヤオリは目の前で大人しく食事をしている。一人で。そんなわけがない。私は看護師の私を呼びに行った。ヤオリには私が必要だ。スタッフステーションの窓を何度も叩いた。割れてしまうほどに叩いているのに、私は気づかない。

 諦めて食堂に戻ると、ヤオリが見たことのない表情を浮かべている。不快なものを遠ざけるために視界を狭めるような、そんな顔だ。ヤオリの隣では、もう一人、食事をしている。一人と言っていいのか、やや不安がある。人というよりウサギの方が近いからだ。ヤオリと同じくらいの身長で、箸を使い食事をしているので、ウサギと言うのも、不安はある。ただウサギの食器の上には私たちの見慣れた夕飯とはかけ離れた葉っぱが盛られている。それの見た目はやや私が知っているウサギに比べると耳は短くて、金色の立髪が顔を囲っている。そのウサギのようなものは、たまにヤオリに話しかけようと試みているように見える。さらにはヤオリに葉っぱを差し出す。しかし、ヤオリは無言でそれを拒否する。
 そんなヤオリとウサギの間に看護師の私が割って入る。ウサギはさっさと葉っぱを平らげ、その場を離れた。思いが通じたことを実感した。自分の食事も持ってきて、ヤオリと一緒に食事しようとしているのだ。それでもヤオリの表情は緩まない。白身魚の上でスプーンが止まっている。それを察した看護師の私は白身魚をヤオリの代わりに平らげる。さすがは私と安堵した。

 私はウサギが気になった。喫煙室へ向かった。ウサギは確かに喫煙室の前で立ちつくしていた。待ち伏せでもしているのだろうか。
 ウサギはどのようにタバコを吸うのだろうか。しかしウサギはタバコを手にしていなかった。鮮やかな緑色の小さな葉っぱを何枚か握りしめていた。
「匂いが一緒なだけで、それはタバコじゃないよ」
 ウサギに声をかけた。通じると思った自分に呆れた。
 そして、ウサギは確かに私を見た。その表情は、相手がウサギだから何も分からなかった。
 私は小学生の時、飼育小屋のウサギたちがかわいそうで仕方なかった。無知なる子供に世話をされているからだ。いつだかの学級会で、飼育小屋の廃止を求めた。もちろん誰も賛成などしなかった。担任は理由も聞かずに私をこっぴどく叱った。しかし次の年から飼育小屋はなくなった。
 殺処分でもされたなら、目の前のそれはあの日のウサギたちの怨念なのかもしれない。

 食堂に戻ると、食後の服薬の列ができている。看護師の私は一人一人、丁寧に薬を飲ませている。
 私は私を見ながら、いけすかないあの看護師を思い出した。薬を飲む一連の動作もできないことへのイラつきが分かりやすい。「はい、次」と無理したがなり声で呼びかける。アイツからすれば、私たちは故障が多いらしい。まったく、いい歳して、漢方を上手く飲み込めないヤオリなんかと一緒にしないでほしい。私は舌を上手く使って、薬を飲んだフリができる。
 反してとまでは言わないが、看護師の私は穏やかに対応している。
 看護師の私が背にしている壁が大きく開いている。これに気づいているのは私だけなんだろうか。もしかしたら私を押し出したら、私は入れ替わることができるのかもしれない。そんなことが頭をよぎった。
 私に彼女の代わりが務まるだろうか。そんなことを考えた自分が意外だった。入れ替わる理由は別に職を全うしたいわけでもない。
「はい、次」
 その声に私はつい身をすくめた。
 服薬はヤオリの番だ。ヤオリの処方には漢方の粉末も含まれていて、飲み込む瞬間、ヤオリは苦しそうに目を閉じた。おそらくその時を私は一生忘れない。その瞬間の看護師の私の顔を。私は見慣れた私と同じ顔をしていた。
 服薬の列の最後尾にはウサギがいた。今も私を見ている。
 ウサギに選択を迫られている、なぜか、そんな気がした。ウサギは言葉を発しないが、何かを言いそうで、私はきっと怯えている。言葉を発しない、そんな保証はどこにもない。
 顔を上げて、ヤオリを見る。気づいた。ヤオリの顔がずっと晴れないこと。そして、ヤオリは本当は白身魚が好きなこと、こんなことも分からなかった自分を恥じた。
 そんな時、誰かの咳払いが一つ、聞こえた。限界値を超えた。

 保護室が外からノックされた。南京錠を開ける音が聞こえた。
 私は何事もなかったように振る舞う。
 晴れて釈放とのことだ。何を悪いことしたわけでもないのに、ここから出ることを皆一様にそう言う。
 私が保護室から出ると、入れ替わりで、羽交い締めにされたヤオリが保護室に連れていかれる。
 すれ違うヤオリは私に手を伸ばす。その手を試しに握ってみたが、虚しくもすぐに解かれた。
 一目散にタバコをとりに行った。その足でスタッフステーション前に向かう。ガラス越しでいけすかないアイツは事務作業をしている。タバコに火をつける。
 喫煙室に向かうと、嫌な匂いにすぐ気づいた。
 気づいてしまった。
 どこか悪いわけでも、悪いことをしたわけでもないが、ここにいる。だからここを出るためのゴールなど、いまだに分からない。
 ただ何もかも気に食わないが、仕方ないから今はここにいてやる。

完

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