「Blue Heron」過去は変えることができないが記憶は動かすことができる

監督の実体験をもとにした半自伝的な映画である。と、知ってはいたが、たとえ知らずに観たとしても察することはできた気がする。
それほど、ホームビデオと記憶の匂いがした。
舞台は90年代終わり、ハンガリー系の移民一家が越してきたバンクーバー島と、その家族の家。
サーシャは4人きょうだいの末っ子で、長兄であるジェレミーにはなにやら「問題」があり、それが両親を悩ませていると、幼いながらなんとなく察していた。
そんな”妹”の目に映っていたひと夏を、映画前半は捉えている。島の自然のうつくしさが家族の夏の日々に溶け込み、けれど印象的に撮られる。そんななかに、ジェレミーも溶け込む。
ホームビデオ的な手法だからだろうか、「この子のこういうところが大変で、こんな行動が困るんです」といったふうに、問題ばかりに焦点があたるわけではない。
ホームビデオは、家族のなんともない日常を撮るものだし、記憶はぜんぶがごちゃ混ぜで、ある一面だけを覚えているものではないからだ。
ジェレミーは下のきょうだいに対して、ときどきひどく意地悪で、ときどきひどく優しい兄だ。両親にとっては、ときどきひどく何者かわからなくなったり、ときどきひどく守りたくなる子どもだろう。
幼い妹であるサーシャには理解できなかった兄を、大人になってから理解しようと努力して、できない。普遍的なテーマがそこにはある。その主題を、印象的なロングズーム、思わずなにかを追ってしまい、それがなんだったのか曖昧になるあの感覚を想起させる素晴らしいパン、といった撮影技術が貫く。
大人になったサーシャは映画監督だ。
ソーシャルワーカーたちを取材して、あのときの兄にどう対応すべきだったのか、またいまならどう対応できるのか、カメラを通して福祉と過去を眼差している。ソーシャルワーカーたちとの対話のシーンは実際の専門家に集まってもらい、サーシャ役の役者がホストとして、3時間カメラを回したそうだ。監督が切実に向き合いたいものがなんなのか、感じることができるシーンである。
兄は別の大人の家へ行き、成人はしたが、死んでしまった。だからサーシャはこれを撮らなければならないし、そこにはサーシャにしか撮れないものがある。
一方、わたしは5人きょうだいの一番上で、下3人は父違いだ。仲が良く、だからわたしは「きょうだい」という物語に弱い。一番惹かれるテーマであり、一生逃れられないテーマとして魂に刻み込まれている。
だから当然、ジェレミーがどうなるのか、なんとなく察していたわたしは悲しかった。ときどきひどく意地悪で、ときどきひどく優しい兄が、映画を観ている時間だけ、わたしには存在した。ときどき微笑み、ときどきどこを見ているのかわからない弟がいた。その兄と弟は架空の町の地図を部屋にこもって描いていて、彼にしかわからない世界があった。満ちて、孤独な。
そしてそんな子どもは過去現在未来、この現実にいつまでも存在し続ける。家族がどんなに愛しても理解することはできず、社会も完璧な手助けが難しい子どもたちが。
わたしはそんなわたしのきょうだいを思って苦しくなり、途方に暮れそうになる。
サーシャは船でバンクーバー島に行き、両親を訪ねる。あの家だ。
そして想像していなかった映画のワンダーがわたしの前に広がる。
わたしは感情を動かすだけだったが、サーシャは記憶を動かす。
過ぎ去ってしまった時間は変えることができない。当然、消えてしまったいのちも戻らない。
けれどひたすらに向き合い、行動したとき、固定されていたはずの記憶は動き出す。動かすことができる。それはサーシャの、監督の、観る人の誰かの、救いになる動きだ。
この映画のワンダーには、誰かの記憶を動かす力があると、わたしは感じる。
たしかに存在した兄が、この映画を観てなにを言うかは、監督にもわからないだろう。だがそれは妹が兄を理解できなかったからではない。理解したい人を理解できないことは往々にしてある。
「あの人はどう思うだろう」と記憶に問いかけることそれ自体が重要なのだ。
そして、決して変わらないはずの記憶が動き出す、その時がきて、いま存在するわたしたちは新しい一歩を踏み出せる。



