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映画「ザ・ハーダー・ゼイ・フォール: 報復の荒野」によせて。

映画「ザ・ハーダー・ゼイ・フォール: 報復の荒野」によせて。

 両親を殺された男の復讐劇という、本作の舞台となる西部開拓時代に限らず、非常に既視感のあるストーリーが展開される。
 特筆すべき点として、まずヒップホップのMVの舞台をこの時代にしてみたと言わんばかりの作りがあげられる。映像、音、キメの演技、編集、音楽、美術が違うベクトルを向いているように感じる。これはショットへの探究や意味の深掘りを放棄した軽薄さが覆っている。否定ではない、確実に見やすさとして作用している。
 もう一つ、繰り返し作られてきた西部劇で無視されてきた黒人の存在や二元論でない性別にスポットを当てようとしている。これは今後増えていくべき観点だろう。特に性別的代名詞を曖昧にする演出は素晴らしい。

 私は残念ながら、西部劇の文脈を語れる程の知見はない。それでも分かるのは、本作が舞台利用しているのみで、その文脈から外れていることは間違いない。
 西部劇において、砂埃を駆け抜ける馬の行く先や振り向く男に待ち受けるものは、そう簡単に提示されない、ひどく曖昧だったりする。また映像で見せる瞬間はやけに静かだったり、キメの演技に過剰なまでの演出を施さないなど、培った映画の構成要素を西部劇は一つ二つ堂々と抜いたりする。
 私が知るそれとはこの映画は明らかに違う。
 ここは本当に悩ましかった。西部劇で保守的に繰り広げられた要素を打ち壊すのであれば、文脈を守るべきだったようにも思う。列車の中で、千手観音を模したようなキメのショットを見れば、西部劇を奪おうとした試みとも評価できる。
 ただ私は文脈を引き合いに出すほどの資格はないため、今回は後者の挑戦的作品と観て書くことにする。

 まずストーリーや演出に難読性はない。最初に記した通りで、主人公の復讐の最中から始まる。様々な事情で無法者の仲間が集まり、復讐対象の最後の一人となる男のギャングと対決する物語である。
 前半は如何にして視覚的にカッコいいショットを撮るかに心血を注ぎ、それが結果、多くの観客に高揚感を与えるキャラクター紹介となっている。確実に訪れる仇との衝突を期待させる。また仇側も善悪の二元論におさめていないことも好感が持てる。
 映画としては弱い。起きるであろうことが起きるし、映像に曖昧な余地はない。偶発的にも見える輝かしいショットはない。特に衣装や街並みや列車の色彩設計は観客に迎合し過ぎていると言える。だからといってダメではない。古典への接続までは到達できないが、西部劇というものが確かにあり、まだきっとこのジャンルで出来ることがあるという考察を残すからだ。

 よくあるヤンキー映画のようなクライマックス以降に言えることは何もないが、気になったのは中盤だ。やはり、仇との再会はどこまでも慎重にならなくてはならない。なぜなら、基本的には出会ったら最後、仇討ちが達成するまで主人公の憎悪は最高潮に燃え続けるからだ。その点がこの映画は頂けない。非常に間の抜けた遭遇だった。これしかないというくらいの邂逅を求めたいところだが、そこまでの贅沢は言わずとも、出会ったら最後、瞬時に撃ち合うほどのバックグラウンドを用意していたことを作者は忘れているのだろうか。呆れ半分、ただこの点が唯一脱線とも言える瞬間として楽しんだが半分だった。構成の欠陥に過ぎないとは思うが。

 私が本当に唯一、残念に思うのは、この映画が「黒人たちによる西部劇」という掲げた理念を文字情報以上に超えることが出来なかった点だ。余白のないこの作りでは無理もないが、意図から外れる勇気は持ってほしかった。
 観客を突き放しエゴの中で模索する、さらに社会的な繋がりを持たせ、作品を残すのは至難の業だが、今回のような挑戦作は積極的にここへ書き残していきたい。

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