「熊は、いない」によせて。映ったものがすべて、だが

まず、この映画の主軸が、国境に阻まれた三組の人間にあることは明白だろう。一組目は、映画監督であるパナヒ自身。二組目は、彼が撮影する映画のなかで、フランスへの出国を試みるカップル。そして三組目は、村の掟によって関係を抑圧される恋人たちである。
パナヒは、自身が置かれた状況を映画のなかに取り込んでいる。出国を阻まれ、映画制作すら禁じられた監督が、それでもトルコにいる演者やスタッフに指示を送り、映画を撮り続ける。だが、彼が映画に利用しているのは、自分自身の境遇だけではない。フランスへの出国を試みるカップルもまた、パナヒと同じように、国境という目に見える障壁によって人生を制限されている。彼らの切実な状況さえ、映画を成立させるための素材となっているのだ。
さらに、パナヒが村にカメラを持ち込むことで、村の掟に阻まれた恋人たちは、いっそう抑圧されることになる。映画を撮ることには意義がある。パナヒはそう信じようとしているのだろう。しかし、映画が現実を記録するという行為は、必ずしも現実を救うことにはならない。むしろ、撮影された人々の生活は、撮影者が理解できる因果関係へと組み替えられていく。
撮影者が決して掬いきれないものがある。そして、その掬いきれなさを抱えたまま、撮影という行為そのものが被写体を苦しめてしまう。被写体の現実を理解したつもりになり、自分の解釈のなかに回収すること。そこには、善意によっても免れない暴力がある。この点において、本作は映画を撮ることの倫理的な矛盾をよく捉えていると思う。
同時に、本作では、目には見えない秩序が人間に及ぼす影響も真摯に描かれている。国境、村の掟、ウワサ。いずれも、それ自体が人間の身体を直接拘束するわけではない。それでも、人々の正義や恐怖心を形成し、ときには死に至らしめるほどの力を持っている。物理的な障壁だけでなく、人々が信じ、従い、他者にも強いる規範が、どのように人生を左右するのか。本作はそのことを、異なる状況に置かれた三組の人間を通して描き出す。
こうした二つの主題に、ことさら新鮮味があるわけではない。映画が他者を表象することの暴力も、共同体の秩序が個人を抑圧することも、すでにさまざまな作品で描かれてきた問題である。しかし、本作はそれらを巧妙に組み合わせ、ひとつの映画として成立させている。娯楽作品と呼ぶつもりはないが、広く観客に届けられる映画として、大変意義のある作品だと思う。
ただし、本作は、そこで閉じてしまってよいのだろうか。鑑賞後、最後まで疑問として残ったのはその点だった。
問題は、テーマが明確であること自体ではない。映画が自らのテーマを明確なものとして提示することで、それ以上の何かを取りこぼしてはいないか、ということだ。
その理由は二つある。
一つ目は、本作が全編にわたって劇映画の形式を採用していることである。もちろん、劇映画とドキュメンタリーを明確に分けるつもりはない。両者の境界を揺さぶることは映画の歴史において繰り返されてきたし、現実を撮影することが直ちに現実を捉えることを意味しないのは、先に述べたとおりである。
しかし、本作では登場人物たちが、どうしても与えられた役割を演じているように見えてしまう。劇映画であることが問題なのではない。劇映画としての演出と、現実の不確かさとが、互いに緊張関係を結ぶところまで至っていないように感じられるのだ。作品のなかで描かれる出来事が、あらかじめ用意された主題を証明するために配置されているように見える。
とりわけ、村の掟に翻弄される恋人たちの物語には、その傾向が強い。フランスへの出国を試みるカップルの物語は、パナヒ自身の境遇と映画制作の問題が重なり合うことで、現実と虚構の境界に一定の揺らぎを生んでいる。対して、村の恋人たちをめぐる物語では、村の秩序やウワサが、彼らの行き着く結末に向かってあまりにも強く作用している。
その結果、共同体の掟が人間を抑圧するという主題は明確になるものの、そこから逸脱する何かが見えてこない。登場人物たちの人生が、映画のテーマを説明するための因果関係に収まってしまうのである。現実を映画に変換することの暴力を描こうとする作品が、みずからの物語を成立させるために、登場人物たちをテーマのなかへと回収してしまう。この矛盾は、もう少し突き詰められてよかったのではないか。
二つ目は、演出そのものが、ときに映画の主題を言葉へと置き換えてしまうことである。
たとえば、パナヒが国境から後ずさりする場面。ここでは彼の足もとがクローズアップされる。国境を越えられないこと、そこに立ち止まらざるを得ないこと。その身体的な動作によって、国境が彼に及ぼす影響は十分に理解できる。しかし、だからこそ、このクローズアップは国境に対するパナヒの感情を、あまりにも明快な文章へと変換してしまっているように思える。
国境という抽象的な概念を、後ずさりする足によって具体化する。演出としての意味は明瞭だ。だが、明瞭であることによって、映像がそれ以上の何かを孕む可能性が閉ざされてはいないだろうか。観客が国境について考える前に、国境とは何かを映像が説明してしまうのである。
ここで思い出すのが、キアロスタミの『友だちのうちはどこ?』だ。
同作は、間違えて持ち帰った同級生のノートを返そうとする少年の物語である。少年は、どこにあるのかもわからない同級生の家を探し、険しい道のりを進んでいく。彼の行動を突き動かしているのは、ノートを返さなければならないという切実な思いだ。しかし、そこに映っているのは、その切実さを説明するための映像だけではない。
少年が歩く道も、彼に応対する大人たちも、少年の目的に奉仕するためだけに存在しているわけではない。大人たちは少年の事情を十分に理解せず、道のりは彼の切実さに応じて都合よく短縮されることもない。カメラは少年を主人公として特別扱いすることなく、彼の目的とは無関係に存在する風景や人間たちを、等しく画面のなかに置いている。
だからこそ、少年の切実な思いは、単にそれを説明する言葉や映像を超えていく。ノートを返すという行為の意味を理解するだけでは捉えきれない何かが、そこには映っている。物語の目的に回収されない風景や他者が存在することで、映画は明文化できる主題を超えていくのだ。
『熊は、いない』にも、目に見えない秩序や、そこから逃れられない人間の切実さが描かれている。しかし、それらを観客に理解させようとする演出が、かえって映画の可能性を狭めているように思える。国境を後ずさりする足が国境の意味を説明し、村の出来事が共同体の抑圧を説明する。こうして映画の各要素が明確な主題へと結びつけられるとき、そこに映っているものは、もはやその主題から自由ではいられない。
映画が現実を撮影しながら、現実を自らの理解できる因果関係へと組み替えてしまうこと。その暴力を主題とする本作が、演出によって同じことを繰り返してしまうのは、皮肉というほかない。
本作の演出は、やや過多なのではないか。主題を伝えることに成功しているからこそ、主題を超える何かを掴み損ねている。そんな印象が残った。

Watch Now
Amazon Prime Videoで『熊は、いない』を視聴する
PR ※リンク先の外部サービスで視聴・購入できます


