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王国(あるいはその家族について)によせて。定義づけという取り返しのつかないもの

王国(あるいはその家族について)によせて。定義づけという取り返しのつかないもの

 本作はまず、未成年を殺した疑いのある人物が警察による取り調べを受ける「フィクションパート」から始まる。
ここであえて「フィクションパート」と記したのは、この映画の大部分が、その殺人事件が起きるまでにある家で行われた会話劇のリハーサルで構成しているからだ。
 「フィクションパート」ではまず容疑者の供述文書が読み上げられる。この中で語られるテクストはこの後に2時間程度続くリハーサルシーンよりはるかに雄弁である。リハーサルシーンのセリフは驚くほど簡素だが、供述で語られる内容には容疑者のニュアンスが含まれ、よりドラマチックとも言える。しかし、警察の読み上げを聞き、言葉を返す容疑者は、自身の供述を無効にするような素振りを見せ、殺人があったという事実のみを残す。

 リハーサルとは、あえて強い言い方をすれば、本作を撮影したクルーを除き、微塵の興味も持たれない、いわば端材にあたる。本作は一部の例外を除き、仮定された家を出ることや身体的な運動はほとんどない。セリフは比較的、文学的、むしろポエティックに寄っており、私の中で定義している映画とは大きく乖離している。唯一、フィクションとして昇華が容易に期待できる殺人のシーンは描かれない。被害者となる舞台上の家の子供は「いる体」とされ、まったく姿を見せない。
 にもかかわらず、この端材はスクリーンに定着した瞬間、もはや端材として留まることを許されず、奇妙な持続として観客の前に現れてしまう。

 リハーサル主体とは言ったが、最中に数回、どこかの町の実景が挿入される。ドラマとの関連性は一切不明である。本作では、日や衣装、配置、状況を変えて、どこか見覚えのあるシーンが何度も繰り返される。リハーサル然としている。その中で、この家を支配する根拠不明な法や不和の輪郭が浮かび上がる。
 町の実景はドラマの補完ではなく、作られた王国と無関係に続く外側との対比であるように見える。しかし、それは単なる外部ですらなく、ただ無関係なショットとして挿入されている可能性すらある。

 この物語は時系列に整理すれば取り返しのつかない結末を迎えるわけだが、果たしていつから取り返しがつかなくなったのだろうという疑問が反復される。
 
 以上をいわゆる通常のフィクションの形式に当てはめるより、本作の形式をとった方が伝わるものがあった、という意図だったとする。
 であれば、素直に言って反対だ。この映画の文法を、今後、他の作品が継承しようとすれば、私は批判する。
 しかし、本作における挑戦と結果を私は賛美せざるを得ない。
 本作が最も評価されるべき点は、リハーサル中に、監督の修正指示がまったく映らないことだ。先にも述べた通り、本作はボールドを叩くところや本読みの風景まで使い、リハーサル然としている。ただ肝心の監督による演出はまったく言葉として映されない。すなわち、この映画はドラマとしての正解は断固として、明示しない。
 ここで重要なのは、演出が廃されているのではなく、演出という概念そのものが撹乱されている点にある。
 役者と撮影、音声、編集によって、映画の再構築に挑戦している。役者は役を獲得し、映画は構図やカット割を獲得していく。まさに各種機材が発明され、その機材の使い方を試行錯誤しているようである。結果、登場人物や事象の内外などという陳腐なテーマから脱却し、僅かながらにも映すことに成功した。この点を賛美している。

 最後にやや余談ではあるが、この映画はドキュメンタリーにカテゴライズされているのを見かけた。ため息しかでない。
 映画は物語を語るものといつからか潜在的に多くの人が思っている以上、ほとんどが同等の挑戦をすることは不可能だろう。だからこの文法自体を賛美はしない。
 本作には感動すると共に、洗練され定義づけられた映画という枠組みそのものに対して、ひどく悲しみを覚えるのだ。定義するという行為は、本来こぼれ落ちるはずのものを回収し、同時に切り捨てる。この映画が提示しているのは、その取り返しのつかなさである。

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